岡山地方裁判所笠岡支部 昭和41年(わ)43号 判決 1969年9月17日
主文
被告人は無罪。
理由
第一、本件公訴事実は、
被告人は、自動車運転の業務に従事していたものであるが
一、昭和四一年四月三日午後五時すぎごろ、自動三輪車(岡六そ一六八一号)を運転し、小田郡矢掛町矢掛二六〇〇番地先の幅員六・四メートルぐらいの県道を、東から西に向って道路中央寄りを、時速二〇ないし二五キロメートルぐらいの速度で進行中、反対方向から対向して来た大型貨物自動車を発見し、同車との衝突をおそれ、進路を左方に避譲してすれ違いをしようとしたが、このような場合自動車運転者としては、道路左側の状況を十分に注意し、その安全を確認して進行し、接触事故等の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるにかかわらず、不注意にも対向車にばかり気を配り、道路外左側端附近に佇立していた難波秀子(当時七一年)との間隔を十分にとることなく進行した過失により、自車の左側ボデイ部分を同人に接触転倒させ、よって同人に加療約六ヶ月を要する左大腿骨折、頭部打撲傷、左肘部挫傷の傷害を負わせ
二、右日時場所において、前記のような人の傷害事故を起したのに、その事故発生の日時・場所等法令に定められた事項を直ちにもよりの警察署の警察官に報告しなかった
ものである。
というにあり、一は業務上過失傷害、刑法二一一条前段、二は道路交通法違反、同法七二条一項後段、一一九条一項一〇号に当るとされている。
(以下においては、検察官、司法警察員に対する各供述調書は、それぞれ、検調、員調と略記し、証人の証言については、証人尋問調書、公判調書中の証言記載部分についてもすべて証言あるいは供述と表示する。)
第二、被告人の供述および各関係人の証言その他の関係証拠を総合すると、細部については第三以下で精密に認定するとして、概略次のような事実があったことは、誤りないものと認められる。即ち、
一、昭和四一年四月三日(日曜日)午後四時か五時ごろ、被告人は養父所有の自動三輪車(岡六そ一六八一号)を運転し、子供二人を同乗させ、小田郡矢掛町のガソリンスタンドから自宅に帰るべく同町矢掛二六〇〇番地の本件事故現場に西進しつつさしかかった。折から大型貨物自動車が対向東進して来たため、これとすれ違うべく減速し、本件事故現場附近で道路左側に自車を寄せて徐行しつつ安全にすれ違いを終り、ハンドルを右に切って道路中央に自車を進出させながら再び西進を開始した。
二、折しも被害者難波秀子(明治二八年三月一五日生、以下被害者ともいう)は、近所のスーパーマーケットに買物に行くため自宅前である本件事故現場の道路端被告人より見て道路左側端に立ち止っていたのであるが、同女がその場所に立っていることは、被告人もその手前から現認しており、同女の前方を前記一のように対向車とすれ違った被告人運転の自動三輪車が走行通過した。その直後に右難波秀子はその場で転倒し地面で左腰部を強く打ち、悲鳴をあげたが、西進中の被告人は後方での同女の声を聞き自車左側のバックミラーと運転台後方の窓から、転倒している同女の姿を認め、二〇メートル位西方道路端に停車して下車し後方の転倒したままでいる同女の所まで歩み寄り、被害者の家族である難波房子、難波賢子とともに痛みを訴える被害者を抱えて西方三軒隣りの高下外科医院に連れて行き、被告人は医師の一応の診断がすむまで同院に留まったが、当初の診断ではさしたる傷ではないとのことで、子供を車内に残したままの被告人は住所、氏名などを明らかにしたうえ一旦同院を出て車を運転して帰宅した。
三、そして被告人は再び自転車で同院に被害者を見舞い、途中で用意した果物籠を贈ったうえ、事故現場の被害者宅にも立寄り、難波芳太郎(被害者の夫)や、難波房子と事故の模様・傷の程度など話し合い、翌四日朝には被害者の好きな煙草朝日二〇本入り一〇箱を、同夜には罐詰を、持参してそれぞれ被害者を見舞った。また、同月一九日には被害者宅で治療費の支払方を請求されるや翌二〇日金一一、五二〇円の治療費を支払ったが、さらに翌二一日示談書作成について被告人と被害者側とに感情の対立が表面化し、書面を作成するに至らず、ついに二二日被告人は矢掛署に事故の届出をした。
四、届出を受理した矢掛署は翌二三日巡査部長日笠護が被告人および三好政志らを立会わせて本件事故現場の実況見分を実施したが、その際の同巡査部長の処置に公正を欠くものがあったと感じた片山澄子(被告人の妻の姉)は、翌二四日早朝矢掛署次長宅を訪れ、その旨抗議を申入れたので、同次長は警部補片山実に再見分を命じ、同警部補は同日改めて日笠巡査部長とともに実況見分をした。
右認定の事実からすれば、被告人の運転した車の走行と被害者の受傷とに因果関係が存するのではないかと疑われる場所的時間的な関係が存するに加え、被告人自身その罪責を疑われても止むを得ないような状況や言動があったことは否みがたいところであり、殊に被告人のとった被害者の救護、見舞、さらには医療費の負担などの行為は通常は、被告人の有罪意識の発現と見られることなのである。
また、警察が届出を受理した段階においては、もはや被告人および被害者の双方の家族において、本件事故に関してそれぞれ自己側に有利に事故当時の状況を認識判断しており、双方側にいわば意思統一状態ともいうべきものが生じていたことも十分予想されるのであって、このことは争点である接触の有無という極めて微妙な事実を認定し、事案の真相を明らかにするに当り、一段の慎重さを要求するものと言える。
右のような点を考慮しながら、さらに証拠の精密な検討に移ることとする。
第三、先ず司法警察員日笠護作成の昭和四一年四月二四日付実況見分調書の証拠能力について検討する。
一、日笠巡査部長が同日実況見分を実施したことは既に認定のとおりであるところ同調書によれば三好政志が立会い、指示説明をしたこととなっているが、その説明内容の真実性について後記第四のような疑念が存する点はともかくとしても、同人が本件事故現場において指示説明をしたのは、証拠上は前日の二三日のことであって、実況見分調書にある「実況見分の日」の二四日ではないと認められる。
すなわち三好政志の証言によると、同人は矢掛署内に事務所を置く矢掛交通安全協会の職員でありかつ矢掛自動車練習場の指導員であるが、「四月二〇日過ごろ、朝いつものように矢掛署に出ると、日笠部長が不在なので他の署員にどうしたのかと尋ねたら行部屋(被害者方の屋号)の前であった交通事故のことで現場に行っていると言われ、君知っているのか、と問われたからちょっとと答えた、そのあと練習場にいると、日笠部長から、知っているなら立会ってくれ、と言われ立会った。」といい、「二日にわたって現場で指示したことはない」と言う。
これに対し被告人は三好政志が立会ったのは四月二三日であることを力説しており証人片山澄子も同ようであって、しかも三好の指示説明が被告人側に警察の捜査に対する不信感を抱かせ再実況見分のきっかけとなったものであることを考えあわせると、右三好の述べる指示説明をした日は、四月二三日と認めるのが合理的であると認められるからである。
二、従って、右三好政志の指示にもとづく現場の関係位置の距離測定も二三日になされたと認めるのが合理的であるが、この点も実況見分調書上は二四日に測定されたと解せられる記載となっている。測定が二三日になされたことは、片山実警部補も認め被告人もそのように述べているところであって三好の指示説明による距離測定は四月二三日に実施されたと認める外はない。
三、さらに右実況見分調書には、見分の結果を明らかにするために写真八枚が添付されており、うち三枚は「加害車両」として被告人が運転していた自動三輪車の写真であるが、これら写真を一見すれば明白なように「実況見分の場所」において撮影されたものではなく、農家らしき家の庭先で撮影されたと認められるものでその撮影年月日はかりに実況見分のなされた四月二四日としても少なくともその撮影場所は実況見分調書上は判然しない。
この点につき被告人は、右三枚の写真が撮影されたのは、昭和四一年五月一五日ごろのことであり、場所は被告人宅の車庫前で、背景の建物は車庫や、附近の家であると言うのであって、この供述には真実性が認められ、少なくとも撮影場所が実況見分の場所でないことは明白であり、しかも撮影年月日も実況見分の日とは別の日であることを疑わせるに十分である。
しかし、これらについての説明や断り書きは、実況見分調書にはなんら記されていない。
このように検討すると、右の実況見分調書は、前日行われた関係人の指示説明、それにもとづく見分の結果を、あたかも当日行われたかの如く記載し、さらには、全く別個の場所で撮影した写真をも実況見分調書に添付するなど、全くずさんなものであると言う外はなく、見分の結果をそのまま記載したものとは到底認められないのであって、これらの不実の内容は、右調書全体の真実性を強く疑わせるものであり、結局右調書は作成者の証言にもかからわず、「真正に作成されたもの」とは言い難いから、証拠能力がないと言わざるを得ない。
右調書は一旦は刑訴法三二一条三項準用書面として証拠調がなされたのであるが、その後の証拠調により右のような諸点が明確となり、同条所定の要件を缺くと認められるに至ったので、前記実況見分調書は結局証拠能力なしとして排除することとする。
第四 次に証人三好政志の証言の真実性について検討する。
同証人の証言を要約すれば、「被告人の運転する自動三輪車に追尾しながら西進していたところ、対向車があったためそれを避けるべく先行車は左に寄り対向車とすれ違った直後、ハンドルを急に右に切って道路中央に出て行った、そのとき被害者が事故現場に倒れており、先行車は少し前進して停車し、運転手が下車して来て被害者を抱き起こし病院に連れて行った、自分は、その車の後方に、バックしなくても前進できる程度の四、五メートルの間隔をおいて停車し、運転手が被害者を病院に連れて行くまでの一部始終を見ていた、事故があったのは、午後五時に練習場を終ってから警察署に行く途中であったから午後五時過である。当時私が運転していた車は練習場の車で、車体の窓枠下部附近から上方は白か卵色、下半分は紺か紫のような色に、いわゆるツートンカラーに塗り分けられたものであった」と言う。
同証人は前記第三の実況見分での指示説明、員調、検調においても本件事故時の状況につき右とほぼ同旨の供述を繰り返えしている。
右供述が真実であるならば、同人は事故現場附近における本件自動車の運転状況を自動車練習場の指導員というある程度専門的な運転知識と経験を有する者として、公平かつ客観的に目撃観察した重要な第三者と言うべきでありその証言は極めて重要視されるべきものであろう。
しかし、当裁判所は同証人の右証言内容の真実性につき強い疑念を抱くものであるが、その理由を先づ同証人の証言が公判廷にあらわれるに至った手続の面より見ると同人の存在は、第一回公判で同意書面として取調べられた被告人作成の上申書中に氏名不詳者として現われていたが、その後、実況見分をした日笠巡査部長の証言中に氏名が判然と現われ、第二回公判で取調べられた実況見分調書中にその指示説明の内容が記載されていたことから、当裁判所もそのような目撃者の有ることを知るに至ったのである。右三好証人は前述のようなその供述内容からみれば通常ならば、先づ第一に取調べを請求すべき証拠資料であるにかかわらず、検察官は何故か終始同人の検調の取調を請求せず、又同人を証人として取調を申請せず、検証の際の指示説明を求めることもなかった。そして結局当裁判所が既に取調べた実況見分調書中の右供述のような右三好の指示説明に鑑み、無視できない重要な証人であるとの判断のもとに、職権により同人を証人尋問した後、ようやく検察官より刑訴三二八条書面として同証人の検調・員調の取調が請求されたに止まった。
このような事実は何を物語るか、言うまでもなく捜査段階で同証人を取調べた検察官自身が、その供述内容に多大の疑念を抱いていたが故に、その後の公判段階においても積極的にこれを公判廷に提出しようとしなかったに外ならないと認められるのである。そして検察官の右のような疑念は以下のような検討に照らすとまことに正しい認識であり評価であったと考える。
そこで、進んでその供述内容の真実性につき検討するとそこには以下のような疑念の存することを否定しえない。
一、同人は前記第三に摘示したように、事故後二〇日近く過ぎたころに、矢掛署員から「行部屋の前であった交通事故」という程度のことを聞いて、直ちに本件のことを想起し、自己が目撃したと洩らしたように証言しているのであるが、そのようなものであろうか。むしろ、事故の日時、被害者と被害の状況、事故起因者など、今少し事故の概況を確かめたのち、自己が目撃したことを洩らすのが通常であろうと思われるが如何であろうか。そのような確かめをした事実は全く認められない。
二、右三好自身が、事故当時の自己の行動につき説明する内容も、多分にうなづけないものを含んでいる。即ち前に要約したところからうかがえるように、同人は転倒した被害者を発見し、運転手即ち被告人が、車を止めて下車し引き返えして被害者を介抱し、近所ではあるが多少離れた所にある医院にかつぎ込むまでの状況を、その場に車を止めたまま運転席から見ていたと言うのであるが、そのようないかにも物見高い野次馬的態度で、狭い幅員の道路上にトヨペットクラウン乗用車を停めていたことは全く不自然ではないと言える行動であろうか。若しそれらが事実であるとすれば、毎日朝夕矢掛署に出頭して事務打合せをしている同人が、何故にそのことを署員に語りもせず二〇日余り後になって前記一、のように卒然と目撃の事実を語ったのであろうか。
三、本件事故当時、現場附近に居合わせて、被害者が転倒していた事実や、被告人が被害者をその家族とともに病院に連れて行った事実を目撃している者は数名いるのである。即ち、事故現場の道路をはさんで反対側には丸五商店があり、折から店内には買物中の坪井都、三宅久子、渡辺淳一らが居合わせ、同店の鎌田生江が応接していたし、同店の二軒西隣りで高下医院の真前にある「しおじり」パーマ店では窓を押し開いて被害者の知人難波君野が目撃していたのであって当裁判所の検証によれば、これら目撃者の位置からすればその人達にとって本件事故はまさに目前での出来事であったと認められるのである。しかも、三好の運転する車は、前記のように比較的印象に残りやすいと認められるツートンカラーで、あたかもパトカーの色合いに似ていたと思われるのにもかかわらず、これを認めた者はいない。被告人自身そのような車がいなかったと述べている外被告人と共に被害者を病院にかつぎ込んだ難波房子、同賢子らも三好の車を目撃していないのである。かえって、そのような車が現場にいなかったことを推測させるような供述をすらしている者もある。三好証人の証言によると同人は事故現場を通り過ぎて、前方に停車していた被告人の自動三輪車の後方に、ちょうど被害者の転倒位置と右自動三輪車との中間附近に停車していたので、被告人らは三好の車の横を通って被害者を医院に運びこんだと言うのであるから、上掲の人々はすべて三好の車を認めうる位置にいたし、当然認めたはずであると考えられるのであるが、三好証人の車が本件現場に居合わせたのを見た者は一人もいない。三好証人が現場に居たと述べているのは同人自身だけなのである。このことはむしろ、同証人の述べていることが、虚偽であって、同人は現場には居なかった事実を示していると言えないであろうか。むしろ、そのように認定するのが合理的であろう。
右のような諸点は、決して不合理な疑念ではないと考えるのであるが、さらに三好証人の証言を他の各証拠(後記第七、二)と対照し慎重に検討しても、遂に右の疑念を全くぬぐい去ることはできないのであって、同証人の証言の真実性につき強い疑いを抱かざるを得ず、結局同証人の証言は到底信用することができないと言わざるをえない。
第五、進んで被害者難波秀子の証言の内容を同人の検調、員調や、その他の証拠と対照しつつ検討しよう。
同人は証言として、「私の店の前に溝があり、その溝の一五センチ位内側(道路よりいえば外側であると認められる)にいて、左手にかさの柄を持ち右手でこれをひろげようと上にあげた時、自動三輪車が私の立っている所に入って来て、その車にひっかけられ転倒し、そのあとはよく覚えない。その時はエプロンを着ていた、あとで見るとそのエプロンの左肘のところが破れていた、それは三輪車にひっかけられた時破れたものと思う、その破れたあたりの左肘にけがをしていたが、それも車にひっかけられた時に受けた傷だと思う」と述べ、員調および検調でもほぼ同旨の供述をしているのであるが、右証言が同人の体験した客観的事実を、そのまま表現したものであれば、それは事故を体験した被害者の供述であるから、争点である自動三輪車との接触の事実の存在を認定するにつき有力な証拠というべきであること当然である。しかも、他に右接触の事実を直接に証明する証拠は、全く存しないので、いわば唯一の証拠とさえ言える。しかし、右供述を根拠に、被告人の刑責を判定するにはそれだけになおさら慎重にその信用性を検討する必要があることも言うまでもない。
ところで、右の「自動三輪車が入って来て、その車にひっかけられ転倒し」という点につき員調では「車が来ていると思った瞬間位に車が身体に当たりその場に転びました」と、証言と同じように接触の事実を断言しているのであるが検調では「車が私の方に向ってやって来たので逃げようとした事までは覚えていますが、どんな風にして倒れたか覚えていません……近づいて来た時どこかに当てられ倒れたものに絶対間違いありません」とあり、同第二回では「私の立っている左側すぐ傍に自動車々体がせまって来ており、その瞬間危ない、と言ったのですがそのままその車に当たって倒れたのです、……その車に当たるか、ひっかけられるかして倒れたものに間違いありません」とあって、あたかも、その接触の事実そのものを体験し、それを事実に即して表現しているようにうかがわれるのであるけれども、反面、自動三輪車の接近、通過と、その際の被害者の転倒の各事実は間違いないとしても、自動三輪車が被害者に接触したか否かについては、被害者自身は直接実際にこれを認識しておらず、もしかすれば自動三輪車の接近と自己の転倒という事実と、着用していたエプロンの破れ、左肘の傷などから逆に推認して、「接触したのに間違いない」と確信するに至り、その旨供述したのではないか、そのため右摘示のような供述となったのではないか、との一抹の疑念をぬぐいがたいのである。
このことは、被害者の前記各供述を仔細に検討すればうかがえるように、「エプロンの左肘の所が破れているが、事故前には破れていなかったから、自動三輪車にひっかけられた時破れたのに違いない」「左肘に傷を受けているが、これもひっかけられた時、受けた傷に間違いない」「自分で転倒したぐらいで腰の骨を折るような重傷を受けるはずがない」「用心深い性質の私が自分で転倒するはずがない」といったいくつかの推測される事実の累積をもって前摘示のような接触の事実を供述する根拠にしているのではないかと思われる節がある以上、なおさらと言わなければならない。
しかしこのように特定の事象の存否を推測させる個々の事象の存否からさかのぼって、その特定の事象自体の存否を認定するに当っては、当然のことではあるが、基礎となった個々の事象の存否が高度の蓋然性をもって肯認されることが必要であるから右の根拠となっている事実が、それぞれ十分な確実性をもって肯定できるかどうか更に検討しよう。
一、押収のエプロンを検すると、鑑定人三上芳雄の鑑定書にあるように、左袖口部分はそう入されているゴムひもを含めてややななめ状に切れ、そこからさらに上方に縦に約一二、五センチメートルの切損があり、上端はさらに左方に約一センチの間損傷し、全体として型に破れているのであるが、右鑑定によれば、この破損が鋭利な刃物(例えばハサミ類)によって生じたか、或いは鈍体物の作用によって引き裂かれたものかの鑑別は不可能であるとされている。しかし続いて、損傷の所見よりすれば、「鈍体突出物が左袖口部分をひっかけて上方にさけて生じたものと思考される」と鑑定されているが、この点は同鑑定人の証言にもあるように、「鈍体物が作用したとして、」被害者の左肘の傷の部位を念頭に置きながら合理的に推測したことであり、この場合「鈍体物の作用」は仮定であることに留意しなければならない。この点を考えながら右鑑定書と、右証言の内容を検討するとき、同鑑定人もやはりエプロンが破損している、その部位に相応する左肘に傷を受けている各事実より推して、エプロンの破損の成因が鈍体物の作用によるものであろうと判定していることが明らかであるが、この点につき当裁判所としてはその判定の結果をそのまま受容するにはなお一抹の疑念を抱かざるを得ない。
若し、右鑑定に言うように、左袖口の破損部位に、自動三輪車の車体側面にあるキャッチ類がひっかかり、同部位が破損してさらに上方にその破損が波及して行ったと考えた場合、エプロンの袖口にはゴムひもを通す「折りかえし」があり、他の部分に比してより強度であると考えられるから、この部分が破れしかも中を通っているゴムひもも同時に切れ、さらにそれが上方に波及して行くには、瞬間的にかなり強い力が作用しなければならないと判断されるが、そのような場合には袖口の縫い目が当然ほころぶことが考えられるし、上方への波及が必ずしも直線状になるとも考えられないのであって、結局右鑑定書は、本件エプロンの破損が「鋭利な刃物によって生じたか、ないしは鈍体物の作用によって生じたかの鑑別は不可能である」という点にのみその意義を認めるべきものであると判断される。
従ってエプロンの損傷のみによっては、その損傷が自動車にひっかけられて生じたものとは断定できない、と言う外はない。
右エプロンは、被害者の家族より事故当時被害者の着用していたものであるとして、昭和四一年四月二八日任意提出されたものであるが、厳密には、それが事故時の着衣であるかは被害者側の言を信ずる外はないことや、しかも提出前に洗濯されており破損が拡大する機会もあったと認められること、被害者の左肘の傷が接触時に生じたとすれば出血があり、エプロンの接触部にその血痕が付着する可能性が強いのではないかと思われるが、鑑定書によれば、右エプロンに血液の付着は認められないこと、などを考えあわせると、なおさらに右のように考えるべきであろう。
二、被害者の傷は、高下医師の診断によれば「左大腿骨折、頭部打撲傷、左肘部挫傷」であり、同医師の証言によると、そのうち最も重症は左大腿骨折であるが、それは正確には大腿頸部骨折であると認められるのであってこれが事故当時の転倒によって生じたことは疑いないのであるが、しかし、その傷は自動三輪車との接触という外力の作用なくしては生じえないものであるかについては多分に疑問があり、卒直に言えば、格別そのような外力が加わらずに単に足を滑べらせ転倒しても生じうる傷であると考えられる。当時被害者は七一歳の高令者であったが、元来大腿頸部骨折は、五〇歳以上の老年者、ことに女子に多いのであって、高令者は骨がぜい弱性を増して非常に骨折しやすくなり、横に倒れて大転子部を強打し直達骨折として発生することが多く、高令者の大腿頸部骨折には格別強い外力を必要とせず、老人が横に倒れて起きあがることができないならば、他のいかなる外傷を考えるよりも右の骨折を推定して誤りがないといわれる程に、よく生じる骨折であって、ふとんの上で倒れて骨折した例さえあるといわれる程であるから足をとられて滑って打っただけでも生じうる骨折であることは医学上の常識であると言ってさしつかえない。(中外医学社刊、片山整形外科学、改訂六版Ⅱ、七八五ないし七八七頁参照)
従って右大腿頸部骨折という重傷を負った事実から逆論して、自動三輪車との接触の事実を推認することは誤りであると言うべきである。そうだとすれば「左肘部挫傷」にしても転倒したとき路面で同部位を打って生じたと見られる可能性も考えうることとなり、被害者の負傷は自動三輪車との接触の事実を前提とせず単に足をとられて滑っただけでも十分生じうる負傷であるということになる。
三、続いて、被害者の転倒した場所、その転倒状況などについての証拠を検討してみよう。
当裁判所の検証調書によると被害者の転倒した場所は、被害者宅(行部屋)の店先であるが、店舗は道路わきの幅五〇センチメートルの側溝端より二メートル奥まっていて、間口七・六メートルあり、この奥行二メートル、間口七・六メートルの部分はコンクリートたたきであるが、このたたきは道路より店舗に向け傾斜約五度のゆるやかな上り勾配で、雑油類が真黒にしみこんでおり、滑りやすい状態となっていたことが認められ、このような油類による汚染は事故当時も同ようであったことは証人鎌田生江、同片山澄子の各証言や被告人の供述にあるとおりである。コンクリートたたきがそのように汚染されたのは被害者宅がバイク・自転車類の販売修理業であるため油類が滴下したり、洗浄油が流れたりしたためであると認められるのであって、証人難波憲市は右のような汚染はなかったと証言しているけれども、その虚偽であることは明白である。
ところで、前記検証において証人難波房子、同難波賢子はいずれも、被害者は前述の「側溝の外、つまり道路上」に立っていたと指示説明した。難波房子は検調で、難波賢子は証言でそれぞれ同じようなことを供述している。このことは通過した被告人の車の進路に近い位置に被害者が立っていたことを意味する証言であるが、当裁判所は右指示説明や供述は、他の証拠と合致せず、信用できないものと認める。即ち、被告人自身が「被害者は側溝の蓋から内側(道路からみて外側の意である。)に立っていた」と供述していること、検調でも同旨の供述をしていること、は別としても、被害者も「溝より内側一五センチぐらいの所に立っていた」と証言している外、検証の際にも渡辺淳一、三宅久子らが同ようの指示説明をしまた難波君野、鎌田生江も同ようの証言をしており、さらには、難波房子自身その員調において、「軒下の外れに近い所」に立っていたが、「倒れた足は溝蓋の上あたりにあった」と述べて、被害者が前記コンクリートたたきの上に立っていたことを認める供述をしているからである。
しかして、当時の被害者の健康状態であるが、同人の証言によると被害者は前述のように当時七一歳の高令で、永く糖尿病を患い通院していたとのことであり、高下良正医師の証言もこれを裏づけているが、さらに同医師の証言では、その糖尿病は病歴も古く、ひどいもので、そのため足許はふらついたような歩き方で心もとなかったとのことであり、証人鎌田生江も同よう「糖尿病でやせて、ヒョロヒョロしていた」と証言し、証人三宅久子も「弱々しい感じがあった」と証言している。これらの証拠よりすれば、被害者は当時歩行がはた目にもわかる程度に不自由で、危なっかしい足許であったと言えるであろう。
しかも、後(第七、二)に認定するように折からの降雨で路面が濡れ、一段と滑りやすい状態となっていたのに加え、その路面は前認定のように油類が染みついて黒くなっていた程であるから、被害者の足許の不自由さはなお一段とひどかったものと認められる。
当時、被害者はスポンジのぞうりをはいていたが、このような履物が、油類の附着した床面上で、時として極めて滑りやすい状態となるものであることも日常よく経験することであることを考えると、その履物にしても決して滑りにくいものであったとは到底認めがたいのである。
このように考察してくると、被害者は、被告人運転の自動三輪車とかりに接触しなかったとしても、なお自身でその場に滑って転倒しかねないような状況にあったことが明白であって、被害者のいう「自分で転倒するはずがない」と言う供述に全面的に依存し、その故に被告人の自動三輪車と接触して転倒したであろうと結論することも早計であること明らかである。
また難波賢子の証言、員調、検調、難波房子の員調、検調、渡辺淳一の証言、検調、難波秀子の検調を総合すると、被害者が転倒したときの姿勢は、身体が幾分左によじれるように倒れ、頭は軒下の方に向いていたと認められ、その着衣のエプロンが破れる程の強い外力を受けた場合に予想されるような側溝沿いにいわば引き倒されるような姿勢で倒れたとは認めがたいのである。
以上、詳細に検討したところを総合要約すれば、被害者の証言や供述は、接触の個所や状況について必ずしも判然とした供述をしているわけではなく、いくつかの事象を根拠に接触の事実を推測し、それを確信して供述しているやにうかがわれる節のあるところ、その根拠となる事象そのものは、右確信を支持するに足る確実性があるとは到底言えないことばかりであって、このような証言や供述を、それが被害者の言であるから、という理由で信用し、有罪の決め手とすることは極めて危険である、というに帰する。
従って、右証言や供述に、必ずしも十全の信頼を置くことはできないのである。
第六、そこで、次に被告人が運転した自動三輪車の進行状況についての証拠を検討しよう。
この点についての証人三好政志の証言が信用できないこと前記第四のとおりであるから、残るは被告人の供述と当裁判所の検証の結果のみであるところ、被告人は員調および検調で概ね次のように述べる。
即ち、「事故現場の約一三・六メートル手前で、対向車と約三〇センチの間隔を置いてすれちがったのち、約四メートル前進したとき、約九メートル前方の側溝わき軒下のあたりに立っている被害者を認めた。自分の車は道路端から約〇・八メートルの所を西進したが、被害者の手前のどのあたりかでハンドルを右に切り、道路中央に寄りつつ進行した」と。この点、検証の際の指示説明は幾分異り「対向車とすれ違ってから約一一・五メートル前進して前方軒下に立っている被害者を認めた。西進するには自車左後車輪が道路と側溝の境線より約一メートル内側を進行した」と指示し、対向車とのすれ違い地点、西進した折の進路がそれぞれ事故現場より遠ざかるように説明し、多少作為のあとが感じられないでもないが、いずれにしても、対向車とのすれ違い地点は被害者の立っていた地点より東方であったことは誤りないものと認められる。
ところで、すれ違いを終り西進する場合の進路を考えてみると、検証調書によれば自動三輪車荷台の側面は左後車輪より精々約一〇センチメートル側方に出る程度であって、同調書添付写真四、五、六、七、一二、からうかがえるように、事故現場のコンクリートたたきの東端附近は、隣家の軒柱が側溝近くまで出張っており、あたかもコンクリートたたきの部分だけ広くあいた形となっていることが認められ、かりに、ハンドルを右に急に切りながら進行したとしても、自動三輪車の荷台部分が側溝の外にはみ出て、附近に立っていた被害者に接触するようになるとは到底考えられず、被害者が検調で言うように「私の方に向ってやって来た」とか、証言にあるように「私の立っている所に入って来て」というような運転状況ではなかったと認められ、まして、被告人が被害者を認めながら、同人と接触することになるかも知れないような極端なハンドル操作をしたと認められる証拠はないのであるから、結局、被告人が運転した自動三輪車の進路を、事故現場の状況に照らして考えた場合、やはり被害者との接触の可能性は乏しいと言わざるをえない。
なお、被害者が立っているのを認めながら、その近くを通過したことは間違いない事実であるが、この場合被告人はすれ違いのため徐行したのち発進しようとしていた時であったから、到底高速度であったとは認められず、右のような近くを通過したことにつき被告人に過失があったとも認めがたいことを附言する。
第七、以上によって、被告人運転の自動三輪車が被害者と接触したのではないかと認められる各証拠が直ちに採りえないことを説明した。無罪とするにはこれでも足りるが、さらに、本件審理の経過に鑑み、その余の二、三の争点に触れて当裁判所の見解を明らかにする。
一、先ず、被告人自身が事故を認識し、かつその刑事責任を自覚していたのではないかと認められるような言動に出たことについて考察する。
前記第二に認めたように、被告人の行動には、あたかも事故を起したことを認識し、かつその刑事責任を自覚していたのではないかと認められる節があったことを否定しがたい。しかし、被告人が西進中の車を止めて下車するに至ったのは後方で被害者の悲鳴を聞き、バックミラーから、さらに運転席後方の窓をとおして、被害者の転倒している姿を認めたからであると供述しているのであるが、この場合後側方で発生した事態であったうえ、かりに被害者と接触したとしても、格別ハンドル操作や音響・振動などによって、運転席で認識できるようなものではなかったと認められることから考えると、被告人の意識は決して事故の全き認識ではなく、むしろ事故の認識はなかったが、「或いは自分の車が関係あるのであろうか」という程度の認識であったと認めるのが妥当である。運転中このような事態に遭遇したとすれば、ともあれ一旦停止して下車し、転倒の事情を確かめる行動に出ることは、むしろ良識ある慎重な態度と言えるであろう。場合によっては救護義務違反の責任が問われるかも知れないことをとっさに判断すれば尚更であるから、下車して介抱したことをもって被告人の有罪意識の表現と見ることは早計である。
ところが、被告人の供述によると、「被害者は『当ってひっくりかえった』というので、えらいことになったと思ったが、『トラックが来たので左に寄っていたのです』と答えた、診察の結果、『大したことはない』と言われたので、安心するとともに、教員の身分にある自分が事故を起し新聞報道などされたくない、という考えが先に立ち、警察にも申告しないで多少の医療費ぐらいは目をつぶって支払い示談しようと思い、被害者の家族にその旨申入れると共に見舞品を贈り、医療費も支払ったけれども、被害者の傷が当初の診断に反して意外に重症であり、自分としても接触したように思えないので、真相を明らかにし、公平に判断してもらおうと考え届け出た、」と言うのである。被告人の心理の右のような動揺変化は、難波秀子が員調において、「四回ぐらい見舞に来たが、見舞にこられる度に話がかわり、しまいには、一人でころんだ、と言われた」と述べているところからも一斑をうかがうことができる。被告人の右のような言動は、いわば自己の保身を計ろうとの思慮が先に立ち、他からかえて疑われる結果となることに思いをめぐらさぬままにあえてそのような言動に出たと認められるのであるが、かかる心理状態は十分有りうることとして理解できる。従って、右供述のような一連の被告人の言動をとらえて、自己の刑責を知りつつも、それを回避しようとするいわば卑怯未練な態度であるとは考えないし、それをもって有罪認定の一資料とすることはもとよりできない。
二、事故発生の時刻について、被告人の供述や、妻片山和美の証言によると、「午後四時過」ということであり、他方、被害者側の難波房子、難波賢子、難波久子の各供述によると、「午後五時過」と言う。この点、前者をとれば、前記第四の三好政志証人は現場にいるはずがないこととなり、後者をとれば同証人が現場に居会わせる可能性を生じる点において、重大な意味がある。
しかし、三好政志の証言が疑わしいことは既述のとおりであるが、被告人側や被害者側の前記各供述も、いずれも確たる根拠は無いのに等しく、それのみによってはいずれとも決しがたいと言う外ない。
当裁判所は、難波房子、三宅久子、難波賢子、坪井都、らがいずれも「雨が降り出したころ」とか「道路がちょっと濡れたぐらいのころ」とか供述していること、難波秀子、難波君野が当初の調べで「午後四時半ごろ」と供述していること、岡山地方気象台作成の証明書によると、小田郡矢掛町東三成所在の矢掛観測所の記録では、四月三日は午後三時ごろから弱い雨が降りはじめ、午後四時一〇分、同三〇分、午後五時、同四〇分にそれぞれ〇・五ミリを記録していて、午後四時から同三〇分にかけてが比較的多く降ったと認められること、を総合し「午後四時過ごろ」と認める。
従って、この点よりしても、前記三好政志の証言の真実性は疑わしいものである。
三、事故当時、被害者宅に配達された貨物があったか、の点であるが、このことはその貨物を取り片づけていた、という難波房子、同賢子の証言の信憑性にからむことであり、これらに関する運送会社の各証明書が存するのであるが、被告人の刑責を判定するには直接には格別影響がないものと考えられるので、強いていずれと判定する必要を認めない。
第八、以上、詳細に説明したとおり、当裁判所は、その取調べた全証拠を総合判断して、結局、被告人が「自車の左側ボデイ部分を被害者難波秀子に接触させ」たか否かの点につき、その証明が十分でなく、かつ他に認められるべき過失もない反面、被害者の受傷が不幸にも他の原因によって生じた可能性も多分にあるものと認め、業務上過失傷害についてはその証明十分でないものとして無罪の言渡をすべく、従って事故報告義務違反は成立の余地がないからこの点についても同よう無罪の言渡をすべきものである。
よって、刑事訴訟法三三六条により主文のとおり判決する。
(裁判官 谷口貞)